仙台泉プレミアム・アウトレット店

こんにちはアウトレット仙台泉店です。
 
先日、青葉城跡に登り仙台藩城主伊達政宗の銅像と数十年振りに対面してきました。
 
 
 
伊達政宗騎馬像
 
 
 
戦国時代の武将であった伊達政宗の「風流の心」「遊び心」は後の世に「伊達男」「伊達眼鏡」などのお洒落を匂わせるファッション感のある言葉の意味に変化しているのは有名なお話です。
 
1月に入ると世界中のアパレルバイヤーやファッショニスタと呼ばれる伊達男達がイタリアのフィレンツェに集まります。
 
その名は"ピッティ・イマージネ・ウォモ"は、毎年2回、1月と6月にフィレンツェで開催する、世界最大規模のメンズファッション見本市であります。
 
弊社バイヤーも買い付けやトレンドの傾向をチェックしに毎年ピッティに赴き、MitsumineのMDの作成や商品の製作に生かしております。
 

今回はMitsumineの商品のエッセンスを知る上でもピッティ・ウォモの名前の由来について簡単に紹介してみます。

"ウォモ"はイタリア語で男性ということだけど、

そもそも"Pitti(ピッティ)"て何?

地名ではなさそうですし、鳥のさえずりにも聞こえるのですが…(笑)

実は"ピッティ"というのはそもそも550年位前にいた人の名前です。その名は"ルカ・ピッティ"。フィレンツェの銀行家です。
 
日本の戦国時代の始まりには既にイタリアでは世界で初めての簿記と銀行というものが生まれていました。
 
 
ルカ・ピッティ肖像画

その頃のフィレンツェというのは、なんといっても商工業者の街で、最盛期には共和制をとっていた為、王様がいませんでした。そんなフィレンツェでも有力な権力者だったのがあの"メディチ家"

メディチ家と言えばあのお笑いの髭男爵のネタでお馴染みの

ルネッサーンス‼︎(ちょと古すぎるか?)

の時期にその財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロの数々の芸術家のパトロンとして有名ですが…

実はその出自はかなり怪しい、"メディチ"という言葉は英語で"メディシン"、つまり"薬"を意味する言葉であります。
 
元々は薬屋か医者ではあったかもしれないが、地位を得る為にかなり危ない橋を渡ってきた輩かもしれないんです。
 
つまり成り上がりなのである。

そんな成り上がりが権力を握ることは名門の出であるルカ・ピッティには面白いはずはない。

銀行家 VS 成り上がりである。

ルカ・ピッティは対抗する為にメディチ宮
殿よりも豪華な建物を作ることに情熱をメラメラと燃やす。それが"ピッティ宮殿"が出来るきっかけになったのである。

彼はよっぽどメディチ家に対抗意識が強かったのか、自分の事業がやばくなっても銀行家のくせにピッティ宮殿の建設には投資を惜しまなかったようです。

結局、宮殿が完成する前に彼は亡くなってしまい、ピッティ家は没落し建設は頓挫する。

なんと!工事が再び始まるのに実に100年の月日が流れた。

エライコッチャ!エライコッチャ!

ピッティ宮殿

そして皮肉にも手を差し伸べ、それを買い取ったのはかつてのライバルのメディチ家であった。

ピッティ家はその後フィレンツェでの権力をすべて失い、流れ流れて現在はアメリカにその子孫がいるとのこと。

一方、栄華を極めたメディチ家は1569年ついにトスカーナ大公(王様)まで登りつめるのだが結局、最後の頃は後継ぎの子供がそろいもそろって男色に走り、家系が絶えてしまうのです。
 
メディチ家が栄華を極めた1560年代の日本では伊達男の名称の元である伊達政宗はまだ生まれたばかりで、織田信長が美濃を攻略し、天下布武を唱え始めた戦国時代の真っ只中にありました。

その後ピッティ宮殿はメディチ家の後はロートリンゲン家、ナポレオン率いるフランス軍、サヴォイア家と度々持ち主を替え、1919年イタリアの王様、ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世によって国家に寄贈されたのでした。

1953年にピッティ宮殿でジョヴァンニ・バッティスタ・ジョルジーニ(通称ジョジョ?) という貴族がなんとファッションショーを始めたのが"ピッティ・ウォモ"のきっかけになったのです。

そしてついに1972年ピッティ宮殿の白の間で第1回のピッティが開催される。

現在ではピッティ宮殿ではなく、かつてメディチ家の持ち物であったバッソ要塞が使われています。

歴史ある芸術そしてファッションの都、フィレンツェ。

550年前のルカ・ピッティのピッティ宮殿への情熱は、イタリアのファッションイベントの名称として現在も引き継がれています。
 
 
 由来などには諸説あり定かではありませんが、たまにはこんなファッション小話も…

 

スタッフ一同、皆様のご来店を心よりお待ちしております。